江戸時代後期に、それまでの重商主義から重農主義への転換など、「寛政の改革」(1787~1793)で名高い老中・松平定信が記した『狛(いぬ)日記』。この中に「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ。」との記述があり、この時代すでに現在の市川から船橋にかけて一大梨園が広がっていました。
江戸時代後期に、それまでの重商主義から重農主義への転換など、「寛政の改革」(1787~1793)で名高い老中・松平定信が記した『狛(いぬ)日記』。この中に「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ。」との記述があり、この時代すでに現在の市川から船橋にかけて一大梨園が広がっていました。
「二十世紀梨」は1888(明治21)年、現在の千葉県松戸市で発見されました。当時13歳の少年だった松戸覚之助がゴミ置き場のまわりに生えていたのを偶然見つけたもので、1904(明治37)年には鳥取県に伝わり、1893(明治26)年に神奈川県川崎市で発見された「長十郎梨」とともに、和梨の代表的な品種に成長しました。
永らく和梨の代表品種は「長十郎梨」と「二十世紀梨」でしたが、絶えず品種改良が進み。戦後はより収穫期が速い早生種で糖度が高く果汁も多い「幸水」「豊水」などが登場し、これらが現在の和梨の代表品種となりました。千葉県は和梨の収穫・出荷第一位。「幸水」収穫第一位、「豊水」収穫第二位など、日本一の梨の国。なかでも市川市はその中心的な産地として知られています。
市川市と近隣地域で収穫される和梨は、シャリシャリとした食感と他の生産地の追随を許さない糖度の高さなど、贈答品として重宝される高級和梨として知られています。JA市川市は『市川のなし』を地域ブランド商標登録し、市川地域ブランド協議会とともに、商品開発、PR、普及に努めています。私たちリカンヌもその一環として「和梨のピューレ」の開発・普及に取り組んでいます。